個人でクリニックを運営してる院長の相続対策としては、後継者への事業譲渡が一般的ではないでしょうか。ただ、事業譲渡には様々な法的なリスクが潜んでいるので、慎重に行わなければ後にトラブルに発展してしまいます。そこで、院長個人で運営しているクリニックの事業譲渡の注意点を解説します。
事業譲渡の法的リスク
譲渡対象を特定していない
事業譲渡とは、事業に関する個々の権利義務を個別に譲渡する行為です。
個人の診療所では、医療機器や薬剤、什器備品などのは院長個人が所有しており、賃貸借契約などの契約関係も院長個人に帰属しているケースが多いと思います。そのため、診療所を事業譲渡する場合は、これらの院長個人の資産や契約関係を個別に譲渡することになるのです。
もっとも、事業譲渡契約書に、譲渡対象となる医業用資産や契約関係をリストアップした目録を添付することで、これらを一体的に譲渡することもできます。まれに譲渡対象がざっくりとしか記載されていない譲渡契約書を見ますが、それでは後に資産や権利の帰属をめぐりトラブルに発展しかねません。事業譲渡契約作成時には、目録に譲渡対象を特定できているか入念にチェックしてください。
債務の承継をしていない
債務についても、資産や権利関係と同様、事業譲渡の譲渡対象として特定されていなければ譲渡されません。
ただし、債務を譲渡して旧院長が債務を免れる場合には、債権者の同意が必要になります(民法472条3項)。
他方で、院長が、事業用資産を譲渡して債務を残すこともできますが、事業譲渡により債務の返済資金が枯渇する場合には、債権者から詐害行為取消権を行使(民法424条1項)され、事業譲渡が取り消されるリスクもあります。
賃貸人の同意を得ていない
テナントを借りて運営している診療所を事業譲渡する場合、賃貸人の同意が必要になります(民法612条1項)。もし賃貸人の承諾なく賃貸物件を譲渡すれば、賃貸借契約が解除されてしまい、後継者はせっかく譲り受けた診療所を退去せざるを得なくなります。賃貸物件で診療所を運営している場合には、必ずオーナーの同意を得てください。
なお、医療機器などのリース契約の譲渡についても、基本的にはリース会社の同意が必要になります。
従業員の同意を得ていない
事業譲渡では、雇用している看護師や受付スタッフも当然に承継されるわけではありません。民法625条1項では、「使用者は、労働者の承諾を得なければ、その権利を第三者に譲り渡すことができない。」と定められていて、従業員を譲渡人引き継ぐには従業員の同意が必要となります。
ただし、この場合には、従前の雇用条件が引き継がれることになります。雇用条件を変更させる場合には、譲渡側で従業員を解雇し、譲受側で再雇用するという方法をとることになります。
いずれの場合でも、従業員を承継するには従業員の合意が前提になるので、従業員に対して、譲受側の業務の概要や雇用条件を十分に説明し、じっくりと検討してもらうことが重要です。
無償で親族に譲渡する
院長が後継者となる親族に事業譲渡をするケースは多いですが、無償で事業譲渡する場合には、他の親族の遺留分を侵害しないか注意してください。
遺留分とは、相続人の遺産に対する最低限の取り分のことです。この遺留分の割合は、次のように決められています。
法定相続人が、
・配偶者のみ :2分の1
・子供のみ :2分の1
・配偶者と子供 :2分の1
・配偶者と直系尊属:2分の1
・直系尊属のみ :3分の1
・兄弟姉妹 :なし
これに、法定相続分を乗じると、各相続人の遺留分が導かれます。
例えば、法定相続人が妻と子供3人だった場合、遺留分割合は、妻が4分の1、子供が各12分の1となります。
一部の相続人に遺産が集中して、他の相続分が取得する遺産が遺留分に満たなかったときには、遺留分を侵害した相続人に対して、遺留分侵害額請求ができます。
また、遺言によって遺産が集中するだけでなく、生前贈与によって遺産が生じた場合にも、遺留分を侵害することがあります。遺留分侵害の対象となる生前贈与は次のとおりです。
①法定相続人以外に対し相続開始時から1年以内にされた生前贈与
②法定相続人に対し相続開始時から10年以内にされた生前贈与
※ただし、贈与の当事者双方が遺留分権利者に損害を加えることを知ってした生前贈与は、期間制限なく、遺留分算定の基礎財産に含まれます。
そうすると、法定相続人となる後継者に対して無償で事業譲渡をし、旧院長が10年以内に死亡すれば、その事業譲渡は遺留分を侵害する生前贈与とみなされて、院長の死後に、後継者が遺留分侵害額請求を受けるといったトラブルに発展する可能性があります。
総資産に占める医業用資産の割合が大きい場合に、無償で事業譲渡をすると遺留分を侵害する可能性が高いので、事前に弁護士に相談して遺留分対策をとっておくとよいでしょう。
クリニック特有の事業譲渡の問題点
行政上の手続き
事業譲渡では、旧院長の許認可関係を後継者が引き継ぐことはできないので、後継者が改めて診療開設許可などの許認可を取り直すことになります。
たとえば、事業譲渡を受けた後継者は、保健所に診療所開設届を提出するとともに、地方厚生局に保健医療機関指定申請書と保健医療機関遡及願などを提出することになります。
遡及願は、保健医療機関指定の審査期間中も、指定日を指定申請日に遡らせるもので、事業承継後、滞りなく保険診療を継続する場合には必須ですので、遡及願いも忘れずに提出してください。
カルテの引継ぎ
クリニックの事業譲渡に伴って、カルテなどの医療記録も承継することになりますが、特別な手続きは必要になるのでしょうか。
まず、個人情報保護法との関係です。
カルテなどの医療記録は、患者氏名や、病歴や薬歴が記載されていますので、個人情報保護法の「個人情報」として扱われます。ただ、事業譲渡に伴って診療録などの個人データ(紙媒体も含みます)が提供される場合には、患者の同意は必要とはされていません(同法27条5項2号。)。
ただし、承継前の個人情報の利用目的の達成に必要な範囲を超えて、その個人情報を扱う場合には患者の同意が必要になります(同法18条2項)。
では、医師法との関係では問題ないでしょうか。
医師法24条2項では、病院又は診療所に勤務する医師のした診療に関する診療録は、その病院又は診療所の管理者において、5年間これを保存しなければならないと規定されています。ここでいう管理者とは、原則として病院又は診療所の開設者を指します(医療法12条1項)。
そして、病院又は診療所の管理者が退任したときは、後任の管理者が保存義務を承継することとされています。医師法では、保存義務の承継の際に患者の同意を条件とはしていませんので、医師法に基づく特別な手続きはありません。
したがって、事業譲渡でカルテなどの医療情報を承継する場合には、基本的に患者の同意をとるは必要ありません。ただし、承継前の個人情報の利用目的の範囲外で個人情報を利用する場合には、患者の同意が必要になるので注意してください。
対策
以上は、個人診療所を事業承継する際の法的リスクの一例です。事業譲渡を進めていくと、法的な問題が度々浮上してきますので、後々のトラブルに発展させないためにも、弁護士に相談しながら慎重に進めていってください。
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